浸透圧

数年に一回、長老が選んだ者に、「禁じられた運河」を下る名誉が与えられる。この名誉は何よりも尊い物で、受け取った者は喜ばなければならない。私たちの居た集落に伝わる不文律だ。

名誉だとか言ってはいるが、要は爪弾き者を追い出すための方便でしかない。だから、事あるごとに長老に歯向かっていたテトラが、名誉を拝領することになるのは当然だった。

「外の世界、あんたも一緒に行くよね?」

拝領式の少し前、きらびやかに着飾ったテトラが、こんなことを言い出した。その瞳は、私を映している。

「嫌だと言っても連れてくからね、絶対」

その声に、澱みはなかった。そんなことはいざ知らず、長老たちは貼り付いた笑顔でテトラの門出を祝福している。

「ごめんね、長老!あんたの大切な娘、ちょっと借りてくよ」

テトラが私の腕を引っ張って、禁じられた場所へ連れていく。

あの時、長老はどのような顔をしていたんだろう。今となっては思い出せない。


「長老からパクったメモ、ちっとも役に立たないじゃん。『流れを下れ』って、一体なんなのさ」

そう言ってメモを睨み付けるテトラの姿を見るのは、これでもう何回目だろう。憎悪に突き動かされ、遠くまで響く声を張り上げていた頃はもう遠い昔、今では、ぶつぶつと悪態を吐くだけになってしまった。

目的地を差し示してくれるはずの憎き小運河は、ちゃぽん、ちゃぽんと音を立て、私たちをあざけり笑う。

いつになれば、長老の言っていた「海」に辿り着けるのだろう。

変わらない風景、いつ終わるとも知れない旅路。それらに滅入ってしまったのか、私たちの間には、深い沈黙と運河が出す波の音だけが流れていた。

「水に流されてしまえ。そうすれば、すぐに下っていけるじゃん」

そんな時、テトラが唐突にこんなことを言いだした。いつもと違う、不自然な程に抑揚の無いその声は、私を不安にさせる。もし、水の中に入ってしまえばあなたはと言いかけた時には、テトラは運河に釘付けになっていた。まずい、早く止めないと。

「入っちゃだめ!」

何を言おうとしたかも忘れて、ただただ声を張り上げた。私の声が聞こえなかったのか、テトラが運河に駆けていく。だめ、運河に入ったら、あなたは

じゃぼん。

嫌な音がした。あぁ、遅かった。

「私が、溶けてる。どうして、なんで」

「大丈夫、大丈夫だから落ち着いて!」

運河から引き上げたテトラの体は、その輪郭を失いはじめていた。私を掴んだ指は一つにくっ付いていたし、瞼は溶けてしまい、瞳がどこにあるかも分からない。

「ちゃんと話を聞けばごめんね

かすかに開いた唇から、しゅん、とうなだれたテトラの声が聞こえる。溶けかけの体から、鼓動が、温もりが伝わってくる。大丈夫、まだ大丈夫、自分にそう言い聞かせる。

テトラが溶けて無くなってしまう前に、海へ辿りつかないと。あの子がそう望んでいたんだから。


「海」にたどり着いたときには、テトラはほとんど溶けてしまっていて、その姿はまるでアイスクリームのようになっていた。

「ほら、見たがっていた『海』だよ」

聞こえるかは分からないけれど、耳のあった場所に声をかける。

「見えない入りたい

口だったところに空いている穴から、かすかに声が聞こえる。消えかけのろうそくのように弱々しく、苦しそうな声が、私をもの悲しい気持ちにさせる。

今まで私を引っ張ってきてくれたテトラが、私のせいでこんな姿になって苦しんでいる。早く楽にしてあげないと。だけど、楽にしてあげた後、残された私はどうすればいいのだろう。

そうだ、もういっそ、一緒に溶けてしまおう。そうすれば、残されることもないし、この広い「海」で一緒になれる。

じゃぼん。

あの時とは違って、とても心地よい音がした。


私が無限に広がっていく。見たことも聞いたこともない集落や、見上げることしかできなかった空にも、そしてあの憎き運河にも。

広がっていく中で、様々な人に会った。名誉を拝領してしまった人たちや、興味本位で飛び込んだ人。本当に多くの人に会ったけれど、その中にテトラは居なかった。

「ねぇ、久しぶりじゃない?」

気に留めていなかったところで、聞き慣れた声を感じた。やっと、見つけたんだ。

「外の世界、悪いものじゃなかったでしょう?」

いつもの自信満々な声に、私は頷いた。